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中村紀洋のプロスピでの評価とおすすめ称号を解説!選手としての経歴も

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中村紀洋のプロスピでの評価とおすすめ称号を解説!選手としての経歴も

元プロ野球選手である中村紀洋さんは大阪近鉄バッファローズなどでプレーをし、中日ドラゴンズ時代には日本一を達成したり、日本シリーズMVPに選出されたりしました。

1992年から2014年までプロ野球選手としてプレーした中村紀洋さんですが、プロスピでの評価はどうなっているのでしょうか。

そこで今回は、中村紀洋さんのプロスピでの評価とおすすめ称号、選手としての経歴についても解説します。

目次

中村紀洋のプロスピでの評価とおすすめ称号を解説!

大人気スマホアプリであるプロスピAは、プロ野球スピリッツのアプリ版として人気を集めており、ゲーム内には現役選手から歴代のレジェンド選手が登場します。プロスピでは過去の成績から選手の能力が反映されていますが、中村紀洋さんの評価はどうなっているのでしょうか。

また、プロスピには称号と呼ばれるシステムがあり、チームや選手の能力に影響を与えてくれます。

では、中村紀洋のプロスピでの評価やおすすめ称号はどうなっているのでしょうか。

2024 S2 OB

2025年10月現在、中村紀洋さんは2025バージョンは登場していません。そのため、2024 S2 OBバージョンとはなりますが、中村紀洋さんのプロスピでの評価はリーグ評価SS、オンライン対戦であるリアタイ評価もSSとなっています。

2024 S2 OBの中村紀洋さんは全盛期の能力となっているようで、打撃・守備が高水準となっており、弱点が走力くらいしかないためSSという評価が付けられているようです。

能力

リーグ・リアタイ評価でSSという高評価を受けている中村紀洋さんですが、プロスピで設定されている能力はこのようになっています。

  • 弾道:アーチスト
  • ミート:A(81)
  • パワー:85(A)
  • 走力:58(D)
  • 守備:70(B)
  • 捕球:B(77)
  • スローイング(73)
  • 肩力:76(B)

たしかに、中村紀洋さんのプロスピの能力を見てみると、攻守において穴のないステータスになっていることが分かりますね。

特殊能力

中村紀洋さんのプロスピでの特殊能力は、このようになっています。

  • 超アーチスト:パワーが中UPして高角度高スピンの打球が打てる
  • 広角打法・改:パワー・ミートが小UPし、流し方向へも強い打球が打てる
  • チャンス:得点圏にランナーがいる場合、パワーとミートが小UPする

中村紀洋さんのプロスピの特殊能力は打撃特化しており、チャンスに強くホームランを打つことができるようになっていますね。

おすすめ称号

プレイヤーによって意見は分かれると思いますが、中村紀洋さんのプロスピでのおすすめ称号はこの2つです。

  • 勝利の使者:スピリッツUP
  • コンタクトヒッター:ミート・パワーがA同値になる

プロスピにおいて、チームスピリッツが上昇することはかなり重要なことで、相手よりも下回っていると、ステータスが減少してしまいます。

また、コンタクトヒッターはミートを上昇させることができるので、中村紀洋さんをより強化してくれる称号として適しているのかもしれません。

中村紀洋の選手としての経歴も解説

中村紀洋さんはプロスピで高い評価を受けていますが、選手としての経歴はどうなっているのでしょうか。

2000年代を代表する選手として活躍しましたが、その実績を知らない人も多いかと思います。

それでは、中村紀洋さんの選手としての経歴を詳しくみていきましょう。

公立校で甲子園出場

中村紀洋さんは1973年7月24日に大阪府大阪市淀川区に生まれました。両親の影響で野球を始めた中村紀洋さんは大阪淀川リトルリーグ・リトルシニアでプレーをし、高校は多くのプロ野球選手を輩出しているような私立校ではなく、両親の意向もあって公立校である大阪府立渋谷高等学校に進学します。

1990年当時高校2年生だった中村紀洋さんは4番打者として活躍し、チームを甲子園出場に導きました。

それ以降甲子園出場はありませんが、高校通算25本塁打を記録しています。

プロ入り

1991年のドラフト会議で、中村紀洋さんは近鉄バッファローズからドラフト4位指名を受け、プロ入りを決めました。

中村紀洋さんは入団当初は体格が細く、守備も不安定で一軍定着まで時間を要したが、1994年にレギュラーに定着。持ち前のフルスイングから放たれる打球は圧倒的で、1995年には打率.228ながらも22本塁打をマークし、一躍チームの主軸へと成長した。その後は近鉄の4番として君臨し、2000年には打率.277、39本塁打、110打点を記録しています。

MLB挑戦

NPB屈指の打者となった中村紀洋さんは、2002年オフにはMLB挑戦を志願してニューヨーク・メッツとの契約合意が発表されるも白紙に戻ってしまいます。

そのため、中村紀洋さんは近鉄バッファローズと契約を結び直し、NPBでプレーし続けましたが、2005年2月4日にロサンゼルス・ドジャースへの入団会見が行なわれました。

しかし、MLBではなくAAAでプレーする時期が続き、22本塁打を放つ活躍を見せましたが、NPBに復帰する決断を下します。

オリックスに復帰

中村紀洋さんは古巣であるオリックス・バッファローズに入団しますが、NPB復帰初年度はケガもあり結果を残せませんでした。そして、契約交渉で球団と揉めてしまい、退団することになり、2007年2月25日に育成選手枠で中日ドラゴンズに入団します。

中日ドラゴンズに入団した中村紀洋さんは、負傷で離脱する場面もありましたが、レギュラーシーズンに130試合出場し、打率.293で20本塁打を記録してチームを牽引し、日本シリーズでは鎮痛剤を射ちながらも出場してMVPを獲得しました。

楽天へ移籍

2008年11月29日、中村紀洋さんは東北楽天ゴールデンイーグルスに加入しました。

しかし、持病である腰痛が悪化したこともあり、調子を落とすとそのままシーズンを終えてしまいます。

そして、2010年の前半戦は打率3割を記録するなど好調でしたが、徐々に調子を落とし、規定打席に到達しながらも同年10月1日に戦力外通告を受けてしまいました。

キャリアに終止符を打つ

2009年5月23日、中村紀洋さんは横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)への入団が発表されました。

2011年は打率.209、1本塁打、14打点という成績に終わりますが、2012年は126試合に出場して打率.274、11本塁打と結果を残します。そして、2013年は代打要員からサードのレギュラーを獲得すると、NPB通算2,000本安打・400本塁打を記録し、2013年と同じく安定した成績を残しました。

しかし、監督との衝突をきっかけに一軍登録されることなく、自由契約となったようです。

まとめ

今回は中村紀洋さんのプロスピでの評価とおすすめ称号、選手としての経歴についても解説しました。

中村紀洋さんはキャリアの晩年でも結果を残していましたが、監督との衝突で引退することになってしまったので、ファンとしては複雑な気持ちがありますね。ただ、その後は指導者や解説者としても活躍しており、スポーツバラエティ番組などにも出演しています。

中村紀洋のプロスピでの評価とおすすめ称号を解説!選手としての経歴も

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